すべてを「喜び」に変えていける人。その人こそ「人生の達人」である。

「喜べ!」・・・これがトルストイの一つの結論であった。何があっても喜んでいける人生。そこには人間としての大境涯があり、強さがあり、幸福がある。

反対に、何があっても、文句ばかり、批判ばかりの人生。それでは、たとえ外見は立派そうに見えても不幸である。

すべてに「喜び」を見いだしていける人。すべてを「喜び」に変えていける人。その人こそ「人生の達人」である。

(「幸福と平和を創る智慧」より)

人生の目的は何か。それは幸福である

人生の目的は何か。それは幸福である。
幸福の決め手は何か。それは境涯である。
同じ環境にあっても、その人の境涯によって、幸福ともなり不幸ともなる。

そして、信心とは、自身の境涯を限りなく広げ続けゆく「自己拡大作業」である。
その根本は唱題である。宇宙大の御境涯であられた日蓮大聖人の御生涯に連なりゆく荘厳な仏道修行である。

(「希望の明日へ」より)

断固として「陽報」を

戸田先生は言われました。「妙法の功徳は目に見えないうちに大きくなってくる。胸に植えた仏の種は必ず大樹になる。一旦そうなってしまえば、その時にはもう”功徳はいらない”と言ってもどんどん出てくるんだ」

私のもとには、この厳しい不況と戦いながら、崇高なる「陰徳」を積まれゆく同士の報告が次々と届きます。
「必ず勝ちます!」「見ていてください!」。
私は妻とともに懸命に題目を送り続ける日々です。断固として「陽報」を勝ち取ることを祈っています。

まず題目をあげることだ

幸福とは単なる言葉ではない。物でもない。財産や地位や名声で、幸福は決まらない。
まず題目をあげることだ。そうすれば生命力が湧いてくる。
何があっても楽しい。友人と語り、心ゆくまで題目を唱えながら、日々の一つ一つのことを、嬉しく感じられる。その姿に幸せの一実像があるといえよう。

(「若き宝友へ」より)

必ずや変毒為薬

今こそ題目をあげきって、どういう結果が出るか、実践し切ろう! 解決してみよう! だれが何と言おうが、私は私なりに御本尊にぶつかってみよう!
──この決心で、十万遍、二十万遍、三十万遍、五十万遍と、題目をあげて、あげて、あげ抜きました。

先生のお体、先生のご家族、先生の会社、そして、先生の作られた学会、先生が育てられた同志……歩いていても、電車に乗っていても、いつもいつも心で題目を唱えながらの闘争でした。

祈りが、まだまだ足りない。まだまだ弱い。まだまだ小さい。自らを叱咤しながらの勇猛精進だったのです。

戸田先生の弟子として、御本尊に願い切っていこう! 働き切っていこう! 同志のために勝ち切っていこう! この一念しかありませんでした。

そして、生活の上に、境涯の上に、厳然たる解決の証拠が出たのです。
「御本尊はすごい!」という大確信を、若き命に刻んだのであります。

未曾有の大不況にあって、全国・全世界の同志が、地域社会の一大変革のために、真剣に題目を唱えながら、人生の現実と格闘されています。
崇高なる仏の大音声が、生命を揺さぶらないわけがない。
必ずや変毒為薬し、その地その国を、宝土と変えていけることを確信し抜いてください。

(「御書と師弟」より)

強き決意の一念によって決まる

人生の戦いも、広布の活動も、すべては強き決意の一念によって決まる。
敗北の原因も、障害や状況の厳しさにあるのではない。
自己自身の一念の後退、挫折にこそある。
人間は、自らの一念が後退する時、立ちはだかる障害のみが大きく見えるものである。
そして、それが動かざる“現実”であると思い込んでしまう。
実は、そこにこそ、敗北があるのだ。いわば、広宣流布の勝敗の鍵は、己心に巣くう臆病との戦いにあるといってよい。

(新・人間革命第3巻「仏法西還」より)

人生は勝利のためにある

戸田先生はこう言われました。「人間は戦うために生まれてきた。進みに進み、勝つために生まれた。これが幸福と平和につながる人生の意義である。人生は勝利のためにある」
その勝利の力が題目です。

(「御書と師弟」より)

煩悩即菩提

仏法では「煩悩即菩提」と説く。
わかりやすく言うと、煩悩とは「悩み」であり、悩みを起こさせる欲望です。
菩提とは「幸福」であり、境涯が開けることです。
ふつうは、煩悩と菩提はバラバラです。悩みと幸福は正反対です。

しかし日蓮大聖人の仏法では、そうではない。
悩みという「薪」を燃やして、初めて幸福の「炎」が得られると説く。
幸福の光とエネルギーが得られるのです。題目によって「薪」を燃やすのです。

(『青春対話』から )

行き詰ったら題目

信心の境涯を開くのは、一歩また一歩の努力である。
止まってはならない。行き詰ったら題目をあげ、行動して開いていく。その、たゆまぬ繰り返しによって、初めて宇宙大の境涯へと一歩一歩近づいていくことができる。

(「希望の明日へ」より)

我々の月々日々の『発迹顕本』

戸田城聖先生は語られた。
「行き詰まりを感じたならば、大信力を奮い起こして、自分の弱い心に挑み、それを乗り越え、境涯を開いていくことだ。それが我々の月々日々の『発迹顕本』である」と。
たとえ、すぐに結果が出なくとも、思うようにいかないことが続いても、くじけてはいけない。我慢強く、朗らかに、今日も船出するのだ。そこに真の希望がある。充実がある。

(「勝利の人間学」より)

ともかく御本尊の前に

日蓮大聖人は「一遍の題目にも、限りない功徳がある」と言われている。
いわんや、真剣に勤行・唱題を続けたら、どれほどすばらしいか。
全部、自分のためです。やった分だけ、自分が得をする。
「ともかく御本尊の前に」・・その心が大事です。
「少しでも、お題目を唱えていこう!」「毎日、御本尊に祈っていこう!」と挑戦を続ける心が尊いのです。

(「勝利の人間学」より)

勇敢な前進の原動力が「題目」

「一念」は見えない。しかし、それは行動となって現れる。
「賢者はよろこび愚者は退く」と仰せの如く、試練にも喜び勇んで挑む一念。
これが「信心」です。その勇敢な前進の原動力が「題目」です。

誰しも苦しみや悩みはある。経済苦や病苦もある。
けれども、妙法を唱え、広宣流布へ進む人は、自分自身が仏の生命となる。
いかなる苦難も乗り越え、勝ち越えゆく仏の智慧と力を、わが命から引き出すことができる。その戦いの中で、わが一念は、真金の如く強くなり、深まっていくのです。

(「御書と師弟」より)

行き詰ったら題目をあげ、行動して開いていく

信心の境涯を開くのは、一歩また一歩の努力である。
止まってはならない。行き詰ったら題目をあげ、行動して開いていく。
その、たゆまぬ繰り返しによって、初めて宇宙大の境涯へと一歩一歩近づいていくことができる。

(「希望の明日へ」より)

題目で勝ちなさい

戸田先生は断言されました。
「題目で勝ちなさい。何があっても、あげきった題目の福運は厳然と残る。絶対に消えないのだ」
勝負は、我ら自身の一念です。行き詰まったならば、それは「前進している証しだ!」と胸を張って、何ものにも負けず、堂々と歩み抜きましょう。

(「御書と師弟」より)

昨日の自分を超えよ

労苦の中でこそ、人間が磨かれ、信心の確信もつかんでいける。
昨日の自分を超えよ。一歩前進するのだ。今日突破できなければ、明日また戦えばよい。
波乱万丈の激戦の中で、歯を食いしばって、勝利と栄光の土台を築き上げるのだ。

(「勝利の人間学」より)

「唱題の人」が「勝利の人」

「唱題の人」が「勝利の人」である。

題目をあげ抜いた人には、諸天が続々と参集する。最大に幸福の方向へと導いてくれる。
題目にかなうものは何もない。学会は久遠以来、最高の「唱題の団体」である。

ゆえに、必ず梵天・帝釈が動く。勝利への道は開く。
三世十方の諸仏・諸天を動かす、勢いある信心と行動をしていきたい。

(「希望の明日へ」より)

煩悩即菩提

真実の信仰は、煩悩即菩提である。
悩みがないのではない。悩みに負けるのでもない。
悩みを乗り越えて幸福をつかみ、境涯を開く。それが信心である。

(「希望の明日へ」より)

「焦らないで」「粘り強く」進もう

ともかく「焦らないで」「粘り強く」進もう。
すぐに祈りが叶う場合もあれば、すぐにはかなわない場合もある。
しかし「冥益」といって、時が経てば経つほど、すべて良い方向に進んできたことが、必ず実感できるものだ。
ゆえに、御書の通り、何があっても題目を忘れず、学会とともに前進していただきたい。
自分自身が勝利者となり、一家眷属も幸福に栄えさせていくための信心である。

皆さんが、「信心して良かった」と思えるよう、私も毎日、祈っている。

(勝利の人間学」より)

必ず幸福になる

題目を唱えていけば、「顕益」の場合もあれば、「冥益」の場合もあるが、結果として必ず、自分にとって一番いい方向になっていくのです。
ともあれ、なにがあっても「祈り続ける」ことです。そうすれば、必ず幸福になる。

(幸福と平和を作る智慧」より)

題目だけは、唱え続けていくこと

題目を唱えることによって、万般に通じゆく自在の境涯を求めずして自ら得ることができるのである。あとは強盛な信心を貫いていけばよい。

必ず成仏という永遠に崩れない絶対的幸福を築いていくことができる。したがって、どのような苦しみや困難があっても、題目だけは、唱え続けていくことである。

(「希望の明日へ」より)